レイナム・ホールの茶色の貴婦人
茶の繻子とひだ襟の肖像の貴婦人
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ヨーロッパ
レイナム・ホール(イングランド)
イースト・アングリア(イングランド)
ホートン・ホール(イングランド)⇄ 文化的異形 (1)
ドロシー・ウォルポールと、彼女が来た家
伝承が茶色の貴婦人の背後に置く名は、ドロシー・ウォルポールである。一六八六年九月十八日にホートン・ホールで生まれた、ロバート・ウォルポールの十三番目の子であり、父と同じ名を持つ首相の妹にあたる。一七一三年、チャールズ・タウンゼンド、第二代タウンゼンド子爵と結婚し、その二番目の妻となった。レイナムで語られる筋書きはこうだ。結婚前に彼女がトマス・ウォートン、初代ウォートン侯爵と関係を持ち、それを夫に隠していたことをタウンゼンドが知り、罰として自室に閉じ込め、失踪を説明するために偽の葬儀まで出した、と。これに対立する版もあり、書き残したのはメアリー・ウォートリー・モンタギューである。閉じ込めたのは夫ではない。罠にかけたのはウォートン伯爵夫人で、数日の滞在に招きながら、タウンゼンドが二度と帰らせないこと、子に会わせすらしないことを承知していた、というのだ。彼女は一七二六年三月二十九日に死んだ。史料が記す死因は飢えではなく天然痘である。これは言っておくに値する。通俗的な語りでは幽閉のなかで餓死することになっているが、それは文学であって記録ではない。
彼女が撃たれた夜
茶色の貴婦人を決定づけた証言は、一八九一年にフローレンス・マリアットが公にした。父である小説家フレデリック・マリアット大佐の身に起きたことを綴ったのである。父は最後の十五年をノーフォークのラングハムの所領で過ごした。タウンゼンド家はレイナムを改装したばかりで、客を大勢招いていた。ところが客は次々と帰ってしまう。廊下で女を見たと言うのだ。州の治安判事であり、神経の細い男ではなかったマリアットは、界隈の密輸業者や密猟者の仕業を疑い、片をつけるために幽霊の出る部屋で寝させてほしいと申し出た。彼は三晩、装填した回転式拳銃を枕の下に置いて眠った。三晩目、暗い廊下を主人の甥二人と戻っていると、ランプの明かりが近づいてくるのが見えた。三人は見られまいとして、ある部屋の外扉の陰に身を隠した。人影はちょうどその前で立ち止まり、ランプを自分の顔に近づけて、記述によれば「悪意に満ちた、悪魔のようなやり方で」にやりと笑った。マリアットは廊下に飛び出し、至近距離から撃った。人影は消え、弾丸は向かいの外扉を貫いて内扉の鏡板に食い込んだ。この話には失ってはならない細部がある。三人が彼女だと分かったのは、寝室に掛かっていた肖像画による。その肖像で彼女は黄色い縁取りのある茶色の繻子をまとい、首にひだ襟をつけている。ひだ襟は一六〇〇年ごろのものだ。ドロシー・ウォルポールが生まれるゆうに一世紀前である。
一九三六年の写真
一九三六年九月十九日、写真家のヒューバート・C・プロヴァンド大佐と助手のインドレ・シラは、雑誌『カントリー・ライフ』のためにレイナムを撮影していた。大階段の乾板をすでに一枚撮り終え、二枚目の準備をしていたとき、シラは霧のような人影が形をなし、階段を自分たちのほうへ降りてくるのを見た。彼はプロヴァンドにレンズの蓋を取るよう叫び、自分でフラッシュを焚いた。写真は同年十二月二十六日に掲載され、以来、史上もっとも多く複製された心霊写真であり続けている。そこに何が写っているかについて、合意はない。通説は二重露光、あるいは蛇腹への光の漏れであり、それも、その反対も証明されてはいない。ただ、擁護のためによく持ち出される論法は退けておくべきだ。現代の解析が「デジタル加工」を検出しない、というものである。一九三六年の乾板にデジタル加工があるはずがない。仕掛けがあったとすれば光とフィルムによってであり、検討に値するのはそれだけだ。もう一つ、二つの名は分けておくべきである。しばしば一人に混ぜられるからだ。プロヴァンドが写真家、シラが助手であり、人影を見たと述べたのはシラで、プロヴァンドは現像するまで見ていない。
ホートンからレイナムへ
写真の名声が消してしまったことが一つある。しかもそれは一九〇一年から活字になっている。茶色の貴婦人はレイナムの者ではなかった。ダットはイースト・アングリアを巡りながら、彼女をホートン・ホール——ドロシーが生まれたウォルポール家の屋敷——に置き、こう書く。「サー・ロバート・ウォルポールの姉妹の一人がタウンゼンド侯爵と結婚したとき、隣のレイナム邸に持ち込まれたのである」。つまり、幽霊は花嫁とともに旅をしたのだ。ダットはさらに、自分の知るホートンの唯一の挿話を、見上げた気のなさで語る。「ホートン・ホールには幽霊譚がある。だが、残念ながら扇情的な細部を欠いている。」分かっているのは、屋敷がチャムリー侯爵のものであったころ客として滞在したジョージ王子が、ひどく取り乱して朝食に降りてきて、滞在の残りは別の部屋にしてほしいと願い出た、それだけだ。理由は言おうとしなかった。その部屋がいわゆる「ビロードの間」である。この口の重さこそが、一九三六年の階段ではなく、この物語のもっとも古い形であり、茶色の貴婦人がつねに一軒ではなく二軒の家で目撃されてきた理由を説明する。
別名
遺物
象徴
元素
茶色と悲しみ
数字
1
色
茶色
動物
死の鴉
印章:
特性
力
弱点
行動
耐性
神話
イングランドの民間伝承は、中世および近世初期を通じて、イングランドの人々の間で主にケルト・ゲルマン・ノルマン系の伝統が相互に作用して形成された。その世界観は異教とキリスト教の要素を融合させ、自然の霊、超自然的な存在、正義・機知・権力への抵抗といった価値を体現する英雄的形象が共存する。最も著名な存在には、森や塚の妖精、宝を守るドラゴン、そして中世のバラッドに登場する寛大な盗賊の原型である伝説のロビン・フッドが挙げられる。
出典
『カントリー・ライフ』一九三六年十二月二十六日号
Captain Provand & Indre Shira · 1936
茶色の貴婦人の写真が掲載された雑誌の号。一九三六年九月十九日、レイナム・ホールの階段で、写真家のヒューバート・C・プロヴァンド大佐が助手インドレ・シラとともに撮影した。史上もっとも多く複製された幽霊の画像である。
イースト・アングリアの大路と小径
ウィリアム・A・ダット · 1901
1901年にマクミランから出たイースト・アングリア紀行。「ブリックリングの亡霊たち」の章に、村人の語るままの姿で、首のない四頭の馬が引く馬車の伝説が収められている。アン・ブーリンは処刑の記念日ごとに首を膝に載せてその馬車で戻ってくるという。父親が州内の橋を渡らされる贖罪も併せて記す。
『死は存在しない』
フローレンス・マリアット · 一八九一年
小説家フレデリック・マリアットの娘、フローレンス・マリアットによる心霊主義の回想録。父から直接聞いた、レイナムでの茶色の貴婦人との遭遇の記述を収める。茶の繻子とひだ襟の肖像、そして廊下での発砲まで含む。
よくある質問
ドロシー・ウォルポールの死因は何か。
天然痘である。一七二六年三月二十九日。通俗の版では夫に閉じ込められて餓死したことになっているが、それは伝説に属する。史料が記すのは病だ。
彼女に発砲した者がいたというのは本当か。
一八九一年にフローレンス・マリアットが、父フレデリック・マリアット大佐について語っている。父は幽霊の出る部屋で三晩、枕の下に回転式拳銃を置いて眠った。三晩目に廊下で彼女と出くわし、彼女はランプを顔に近づけてにやりと笑い、彼は至近距離から撃った。弾は向かいの扉に食い込んだ。
一九三六年の写真は誰が撮ったのか。
二人である。しばしば一人に混同される。写真家のヒューバート・C・プロヴァンド大佐と、助手のインドレ・シラだ。人影を見たと述べ、フラッシュを焚いたのはシラであり、プロヴァンドは現像するまで見ていない。掲載は一九三六年十二月二十六日、『カントリー・ライフ』誌。
なぜホートン・ホールにも現れると言われるのか。
現存する最古の記述、一九〇一年の版では、ホートンこそが彼女の家だからである。ドロシー・ウォルポールはそこで生まれ、理由を言わずに部屋替えを願い出たジョージ王子の挿話もそこに置かれる。レイナムが彼女を受け取ったのは、そのあと、結婚とともにだった。
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Bestiarypedia. (2026, August 27). レイナム・ホールの茶色の貴婦人. Bestiarypedia. https://bestiarypedia.com/ja/beings/brown-lady-of-raynham-hall
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